ミリ・バニリ

ミリ・バニリ
ミリ・ヴァニリ(Milli Vanilli)はロブ・ピラトゥス(1965年6月8日 - 1998年4月3日)、ファブリス・モーヴァン(1966年5月14日 - )の2人組ダンス・ユニット。デビューから4曲の大ヒットを放ちグラミー賞を受賞したが、後に別人が歌っていたことが発覚し賞を剥奪された。
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ロブ・ピラトゥスはアフリカ系アメリカ人の兵士の父とドイツ人の母の間にニューヨークで生まれ、ミュンヘンで育った。ファブリス・モーヴァンはパリ生まれのアフリカ系移民で、18歳でドイツへ移りミュンヘンのクラブでピラトゥスに会った。
1970年代にボニーMのプロデュースを手がけ大成功を収めたプロデューサーのフランク・フェーリアン(英語版)は、ラップをフィーチャーしたダンスグループ結成を考え、チャールズ・ショウ(Charles Shaw)、ジョン・デイヴィス(John Davis)、ブラッド・ハウエル(Brad Howell)ほか数名の有望なシンガーを集めていたが、フェーリアンは彼らには実力はあるものの売れるための要素に欠けると考えた。そこへピラトゥスとモーヴァンに会ったフェーリアンは、彼らのカリスマ性に魅せられ、2人をフロントマン、他のメンバーをシンガーとしたグループを結成した。実際に歌うのは「影武者」たるショウやデイヴィスらで、ピラトゥスとモーヴァンは歌わない「グループの顔」すなわちフロントマンであったが、この事実を明らかにしていなかったことが後にトラブルの元となる。二人はトルコへの旅行後、現地で見たトルコ語の宣伝文句からグループ名を「ミリ・ヴァニリ」に決めた。
1988年にフェーリアンの本拠である西ドイツからデビュー。ヨーロッパ各国でのヒットを実績にアメリカへ上陸。アリスタ・レコードと契約、「Girl You Know It's True」は全米2位、その後3枚のシングルは全米1位の大ヒットを記録する。ポップでダンサブルなサウンドと流行の兆しを見せていたラップ、モデルさながらのファッショナブルなルックスも手伝ってそのヒットは世界的に広がり、1990年には、グラミー賞の最優秀新人賞を受賞した。
ところがそのヒットが、フロントマンであるピラトゥスとモーヴァンを増長させる。2人は後にフェーリアンと対立、フェーリアンは意趣返しとばかりに彼らがレコーディングでは歌っていない、すなわち口パクであることを暴露したため大騒動となった。2人は記者会見でその事実を認めつつも 「Girl You Know It's True」 の一節を歌ってみせるが、実際の歌声は記者たちの失笑を買うほどのものであった。一つのグループの中でフロントマンとヴォーカルが別人物であること自体は問題ではないものの、当初からそれを隠したままグラミー賞を受賞してしまったことで、賞は剥奪されレコードも廃盤となり、ミリ・ヴァニリは事実上芸能界から追放された。
騒動の後、実際に歌っていた「影武者」たちはリアル・ミリ・ヴァニリ(Real Milli Vanilli)としてデビューしヨーロッパでは一定の成功を収める。かたやピラトゥスとモーヴァンもロブ&ファブとして再デビューするが、こちらは売れるはずもなかった。
その後、フランク・フェーリアンはピラトゥスとモーヴァンをリードヴォーカルに据え、再度ミリ・ヴァニリとしてカムバック・アルバム「Back and in Attack」を制作し復帰を目指したが、ピラトゥスはドラッグやアルコールに溺れた挙げ句に強盗事件を起こし、カリフォルニアの刑務所に3か月間服役することになる。フェーリアンはピラトゥスのドイツへの帰国費用とリハビリ施設での費用を負担して彼の復帰に尽力したものの、ピラトゥスは復帰作のプロモーションツアーを翌日に控えた1998年4月3日、フランクフルト近郊の町フリードリヒスドルフのホテル"Kent's Cube"の一室で死亡しているのが発見された。32歳没。死因はアルコールと薬物離脱プログラムに使われる処方薬の過剰摂取による偶発的なものとみられている。
2007年2月、ミリ・ヴァニリの2人の人生がユニバーサル・ピクチャーズ製作、ジェフ・ナサンソンの監督・脚本で映画化されることが発表されたものの、その後制作や公開に関する続報は伝えられなかった。しかし、2011年2月、ミリ・ヴァニリをテーマにした映画について、『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』を監督したフローリアン・ガレンベルガーの監督・脚本で制作されるこさとが改めて発表された。しかし、その後の続報は伝えられていない。

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